つい先日、特集タイトルに惹かれて買った雑誌の記事に考えさせられました*1。
その記事は、台頭するテックビリオネアと民主主義との相性を指摘したものでした。テックビリオネアたちは個人の自由や自己決定権を最大限に尊重するリバタリアンの立場をとり、自由な市場を通じた富の分配はいかなるかたちであれ正当化されると(つまり、富が集中してもいいし、格差は広まっても構わない、というスタンス)。だからこういう人達は専制君主的・実力至上主義的で、民主主義のような厄介なプロセス、妥協、富の再配分を嫌うのだと。
この記事を読んで、なぜ能力主義人事がご時世に馴染まないか、思い当たるところがあります。
たとえば、この時期になると人事異動や転勤が人事の問題になりますが、近年は特に若年層がキャリア指向ということで自己・自由を優先する傾向が顕著です。これはある面でリバタリアンな傾向だと思います。いっぽう、そもそも人事異動は能力主義人事のひとつの側面で、組織のために本人の意思に背いても長期的視点で様々な役割を担わせたりと、組織全体の利益が巡りめぐって個人の利益にもなる、ある意味で妥協的な仕組みでありました。能力主義人事は経営の民主化の産物だったこともよく知られているところです。
だから先の論に従えば、能力主義人事はリバタリアンには馴染まないのでしょう。
しかし、この記事は次のように指摘します。自由を守るためには平等も確保しなければいけない。なぜなら、一部の人が自由を得ようとするほど結果的に不自由な人を生じさせる矛盾があるから本当に自由な社会を作り出すためには一人ひとりの妥協が必要、かもしれないわけです。
自己・自由を優先する雇用スタイルが、全体として幸福をもたらすのか考えさせられました。
*1 『なぜテックビリオネアは民主主義を破壊したがるのか』木澤佐登志 中央公論 2025.4