「令和の米騒動」といわれているわけですが、大正時代に起こった米騒動はどのように起こったか経緯を知ると、当時の米価と賃金が現代とはずいぶん異なる状況であったことがわかります。
孫田良平が書いた『年功賃金の歩みと未来』(S45.2.15)によると、大正時代の中期から末期にかけては第一次世界大戦の影響で急激なインフレが襲った時代で、家計をみると「米代が賃金の二二%を占め、しかもこの米価が、大戦後のインフレによって著しく高騰してゆく」時代だったそうです。「明治四三年の東京市における生計費調査では、食費は全体の六八%という結果を報告していることからも、当時の生活では、なんといっても米価の変動が最大に影響していたものと考えざるをえない。」とあります。こういう背景があって、大正7年7月に富山県魚津町(現在の魚津市)において、生活難に陥った民衆が決起し全国に波及したという米騒動となるわけです。
収入の22%が米代だったことを現代の金銭感覚に置き換えてみると、年収400万円で換算すれば実に年額88万円(月額7.3万円)が米代に消えたような状況ということになります。当時は家族数も米の消費量も今よりは多かったと思いますが、それを考慮してもいまの米価の3~5倍程度の実感だったのではないかと推測するのです。現代では、日本のエンゲル係数は大きくても30%程度であり当時とは異なるのと、主食は米とはいえ食糧の選択肢は増えていますから、米価が家計に与える影響は大正時代ほどではないと考えられます。「令和の米騒動」と書き立てるほどの状況か疑問を感じるところです。一方で、遠い昔のこととはいえ現実に起こった事であって、世界がふたたび有事となった場合に同様の状況に陥る恐れはあるわけです。
なお、孫田本によれば、大正7年以降「このような米価の暴騰やインフレの亢進は、労働運動の高揚をみ、労働組合の設立、労働争議の続発をみるに至る」こととなります。その結果、企業は生活関連手当(たとえば家族手当)や年功序列型賃金といった、労働者の生活を守るための賃金体系を採用することで事態の鎮静化を図ったそうです。この賃金体系は太平洋戦争時に強化され、さらに戦後は日本的経営に引き継がれ、驚くことに令和の現代にまで何らかの形で社会に影響を与え、たとえば初任給を含む賃上げ議論や、今国会でも議論された「所得の壁」など、様々な社会問題となって顕在化しているわけです。